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石川周三名誉会員「世界週報」掲載文のご紹介

先日行われたIAA特別講演会2016年は、60分という制限された時間のなか、英語のみで進行いたしました。IAA事務局としては「英語のみ」ではハードルが高いのではないかと危惧もしましたが、最終的には通訳にあてる時間さえもおしいという程の貴重な講演会となりました。
いまだにこうした「英語」という言葉の問題に直面することも多々あるなか、今からさかのぼって16年前にIAA日本の名誉会員の石川周三氏が「世界週報」に興味深いご意見を残していらっしゃいますのでご紹介させていただきます。
(2016/7/19)




「英語力強化は日本復活の不可欠の条件」
石 川 周 三

 本誌(世界週報・九九年六月一日号)において私は、日本が一流国として生き残るためには世界の共通語である英語の力を「言語資本」として認識し、それを急速に充実することが必要であることを訴えた。その後、国家レベルで英語教育の必要性が議論され始めたことは喜ばしいことであるが、世の中には英語を外国語として捉え、その普及が日本の文化を破壊する、といった趣旨の発言をする人も少なくないので、敢えてこの問題を再度取り上げてみたい。先ず、前述の拙論の要旨は以下の通りである。(一)英語が世界の共通語になったのは単に米国の経済力・軍事力の強大さによるだけではなく、英語が比較的習得し易い文法でありながら高度の思想を伝達し得るという本質的な優位性(特徴というよりも特長)をもっているからである。(二)日本は国家レベルでも民間レベルでも、共通語である英語の力がないばかりに極めて大きな損や無駄をしている。(三)このような状態が続く限り、わが国は当面の経済危機を脱出し得たとしても、末永く世界の一流国として栄えることは困難であろう。

  共通語と標準語

 好むと好まざるとに拘わらず、英語が世界最有力の共通語になっていることは否定出来ない事実である。英語力の強化に異論を唱える人は、英語を「外国語」或いは「標準語」と見なすので、先ず感情的に不愉快になる。昔から征服者はその言語を被征服者に強制するのが統治のための常套手段であったから、「外国語」を使うことに反感を感じる人は少なくなかったし、民族主義運動といえば必ず民族古来の言語の使用が主張されて来た。従ってこの「反・外国語」感情は理解出来る。又、日本でも戦前は東京の山の手の中流家庭で使われていた言葉が「標準語」として国家権力により全国に普及された。戦後は地方語の一つに過ぎない東京語を「標準語」とするのは特定の価値観の強制であるという理由からであろう、「共通語」という言葉を使い出した。
 呼び名はともあれ、もし明治維新後も日本に共通語がなければその近代化は不可能であったろう。同時に、百年以上の共通語の歴史がありながら日本各地の固有の言語はなくなってはいない。アメリカでもテレビの普及に伴い、かつてのブルックリン訛りなどが聞けなくなったという人もいるが、それに比べればわが国の地方語は健在であるといえよう。 言葉に限らず固有の文化は当然大切にせねばならないが、「共通語」を「外国語」として嫌悪していては、それこそ話にならない。

   
   日本は英語力不足でどれ程損をしているか

 卑近な例から始めよう。 日本企業で海外勤務をしたことのある人なら、本人が認めようが認めなかろうが、正直に言って、その業務の可成りの部分は本社と現地との間のコミュニケーションの仲介、つまり通訳・翻訳的作業であることは知っているに違いない。そして多くの場合それは英語で行われる。もし海外からの情報が英語で入って来れば、本社で先ずこれを日本語にしなければ利用価値がない。本社から海外に発する情報も逆の作業ではあるが同じことである。このような通訳・翻訳的作業が減れば減る程経費が節減出来るし、最終的にはゼロにすることも出来る。
 更に重要なことは、このような作業が不要になれば情報伝達に要する時間も短縮出来るし、意思決定に至るまでの時間も短縮出来る。(あとで触れるが、所謂IT革命の目的はここにあるのではないのか。) 
 商売を離れて考えてみても、公的・私的を問わず、国際的な組織・団体で日本に世界本部を置くものは一体幾つあるだろうか。地理的なハンディキャップもさることながら、英語人口の少なさ、つまり英語を使うに要する費用、「英語代」の高さが日本を敬遠させ、或いは、日本側が引き受けたがらない最大の理由である。このために重要な情報の入手に遅れをとることになる。敵の本丸から遠すぎるのである。本音と建て前を使い分けするのは日本人だけではない。色々な国の人が集る場合でも、会議場の外での雑談の中に貴重な情報が隠されていることが多い。そこで我々は金に換算出来ない程の損をしている。

  日本の鎖国はまだ続いている

 わが国の雇用制度は少しずつ変わり始めたが、基本的には相変わらず江戸時代の主従関係のようなもので、かつての脱藩者が往々にして酷い目にあったように、日本のサラリーマンが転職すると退職金・企業年金等々、損をすることの方が多いであろう。日本人の場合でもこうだから外国から優秀な人材を連れて来るのは容易ではない。日本に骨を埋める覚悟の人はともかく、幾ら日本語を習得して日本企業に就職しても、それが彼らの所謂カリア・パス上どれだけ役立つか。苦労して外国語を学ぶのであれば、はるかに汎用性の高い英語を身につけた方が得である。日本の大学に来る留学生の数が米英に比べて極めて少ないのは、日本の物価より日本語の汎用性に原因があるのだ。

●最近コンピューター・ソフト部門におけるインド人の活躍振りが話題になっているが、私の限られた経験からみても、アメリカでは十数年前から目立っていた。彼らは伝統的に数理に強いそうだが、彼らが世界中で活躍出来るのは、その英語力がものをいうからである。インドから何千人ものソフト技術者を招聘し、日本語を学ばせ、社宅を支給し、いわば生活のインフラを提供しても、日本に腰を据える人は少ないであろう。お役目が終わったら帰ってもらおう、というのなら出島に住まわせるようなもので、近視眼的利己主義といえよう。外国人の入国管理・就業規制は国の主権にかかわる事柄で、どこの国も行っているが、それらの条件を満たした、所謂真面目な外国人にとって日本程住みにくい「先進国」は珍しい。ある意味ではわが国の鎖国はまだ続いているのである。

  このままではIT革命にも遅れをとる

 このところ、それこそカラスの鳴かない日はあっても「IT革命」の四文字を見ない日はない。そして「I」が「情報」、「T」が「技術」を意味することも大多数の人が知っている。しかし、同時に「革命」の文字から「産業革命」を連想し、しかも「技術」というからにはハードウェアの話だと思っている人も世間には少なくないのではないか。
 今、世界中のインタネットで流通している情報の七〇乃至八五パーセントは英語だといわれる。この数字の根拠はとも角として、圧倒的多数であることは確かである。従ってその産業に従事する人にとって英語力は有力な武器であるし、その利用者に英語力がなければ、宝の山を前にして指をしゃぶっているようなものである。 (或いは自分の前に宝の山があることさえ知らない、ということになる。) 何れにせよIT革命が目指す情報の迅速な伝達・流通の埒外に置かれている訳で、日本中を光ファイバーでつなぐのも、経済効果としては大いに結構なことだが、それと同時に日本全体の英語力を増強しなければ世界革命に取り残されることになる。ハードウェアの整備はあく迄もIT革命の「手段」であって「目的」ではあるまい。

  「共通語力」なくして「平常心」なし

 ある日本の女子テニスの名選手は引退インタビューで「もしもっと英語が出来たら、もっと勝てた筈」と言っていた。又、ある若手ゴルファーは海外でのトーナメントで好成績を収めたあとのインタビューで「これから何をしたいですか」との問いに「英語の勉強」と答えていた。ある元女子長距離ランナーはテレビ番組の中で「試合前に監督サンが外国チームの監督に英語で話しかけられて逃げ廻っているのを見ると、こっちまで戦意を失う」と話していた。
 恐らく日本の選手は海外で共通語が出来ないばかりに余計な緊張を感じ、平常心を失って本来の実力を発揮出来ないのではないか。各大学の体育会は、世界的に活躍出来る選手を出したければ、練習時間の一割位、英語の訓練に充ててはどうだろう。
 かつて土光敏夫氏は「真の国際化とは関税を引き下げるとかいうことではなく、平生心をもって外国人とつき合えるようになることだ」という趣旨のことを言われたそうだが、まさに卓見である。私流に解釈させて頂くならば、「外国人と接する場合に緊張しない、相手にも緊張させない」ということであろう。国というチームや企業というチームの監督サンにこの能力・資質がなければ試合は危ない。勿論、英語など話せなくても堂々と渉り合う方々もおられるが、互角に戦うためには、共通語が判るという安心感が役に立つ。これは決して、通訳を使うなということではない。中途半端なコミュニケーションで相互の誤解を生じるより、正確な通訳を使うべきではあるが、その場合でも、通訳は必要条件ではあっても充分条件ではない。

  言語資本の充実なくして日本の将来なし

 「公共事業大いにやるべし」という人の論拠に、「日本はまだ社会資本が不充分だから」ということがある。 私はここでそれを議論すべき立場にはないが、わが国に最も欠けているのは言語資本である。 
 先にも述べたように、征服者がその言語を被征服者に強制したのは歴史上の事実である。しかし、それは必ずしも文化を強制したのではなく、植民地経営を効率化するためではなかったか。(ただ、二十世紀前半の日本の対台湾・朝鮮政策は日本文化の強制であったろう。) 何れにせよ、「英語帝国主義」論が出て来る感情的背景は判らぬでもない。しかし、人間の「能力」が資本の一種であるならば、言語の熟練は他の各種資本の充実と同等の重要な意味をもつと言えよう。そして、その言語は先に述べた特長から、今後何世紀もの間、英語であるに違いない。(人工的な言語であるエスペラントは共通語としての地位に達することは出来なかった。)
 当面個人として英語が出来れば有利であろうが、言語資本となれば国家レベルでの増強・蓄積がなされねば無意味である。複数の公用語をもつ国は幾つもあるが、それらはすべて内政上の理由によるものであって、そのような理由のないわが国で英語が第二公用語になることはあるまい。しかしながら、ただでさえ「顔の見えない日本」などと思われているわが国は、いくら諸制度・諸慣習の透明化を図っても、それが日本語の範囲内で行われている限り、外国から見れば「訳の判らん国と人々」に過ぎないのであって、極論すれば、円の基軸通貨化なども程遠いのではあるまいか。
 IT革命が国中の話題になっている今日、言語資本の充実も並行して活発に議論して頂きたいものである。




「世界週報」2000年10月10日号掲載   (原題は「国力としての言語資本」)








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by iaajapan | 2016-07-19 17:17 | 講演記録
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